「あっつぅーい!」
ミミは教室に着くなり開口一番にそう文句を垂れる。
それを聞かされる周囲の者の体感気温を上昇させるような気だるく甘ったれたような声で。
先程の爽やかな笑顔がまるで別人のものてあるかの様だと光子郎は感じた。
バタバタと襟元を揺らし少しでも涼しい風を送り込もうとするミミ。
椅子に凭れ掛かると、そのままずるずるとまるで溶けてしまうかのように崩れ落ちた。
その様子に引き攣りながらも、光子郎はミミに倣って自分も席へとつく。
「ったくナンナノヨ、この暑さは!」
まるで何かに訴えかけるように、ぶつぶつと独り言を呟くミミは、ランドセルを机の上に放りっ放しにして、仰け反って天井を仰ぐ。
すると明るかった視線に急に影が過ぎった。
「おはようミミちゃん」
その影の正体は、クラスでも仲の良い少女のものだった。
ミミは姿勢を戻すと、彼女に向かいなおして、おはよう、と爽やかな笑顔を作って挨拶をした。
その様子を見て、辺りでは笑が漏れるが、それを気にする風でもなく少女は話を始める。
「ミミちゃん知ってる?今朝海岸で撮影があったんだって」
どのクラスにも必ず一人はいる、噂好きの情報屋。
ミミの所属するクラスでは、彼女がそれだった。
「うん!知ってる知ってる!」
ミミも大概噂好きなので、彼女とはよく気が合う。
二人のこんな会話は、このクラスでは朝の風物詩として当たり前の光景だった。
「女優の…何て言ったっけ?最近出始めた人だよね?」
「そうそう、その人が…って何で知ってるの?結構オフレコらしいのに」
少し口を尖らせて、少女は意外そうな顔をする。
自分しか知らない、スクープだと思っていたらしい。
「今朝海岸でそのロケを見かけてさ〜」
ミミは、腰に両手を当て自慢げに語る。
少女は羨ましげに、いいなぁ、としきりに言ってはその様子を聞きたがったが、ミミが語ろうとした丁度その時、担任の先生が教室に入ってきて、辺りに散らばっていた生徒たちは蜘蛛の子を散らしたように慌しく自分の席へと戻っていった。
「ふ〜んナルホドぉ」
一頻り話を聞き終わると、少女は握ったままですっかり温まってしまった牛乳を一気に飲み干した。
ズズズ、と音を立てたストローから唇を離すと、うげぇと言う表情を作る。
昼休みまで話がもつれ込み、牛乳以外の食器類はすっかり給食当番に片付けられた今も、少女は机もそのままにミミと二人話し込んでいる。
休み時間毎にも話をしていたが、その時はクラスのみんなが聞いていた。
しかし、ある程度の話を聞くと、昼休みにはグラウンドや図書館など、其々好きな場所へと出ていき、教室には最早二人きりになっていた。
さてと、と言ってミミは腰をあげる。
ミミもまた、昼休みには決まって訪れる場所があったからだ。
「あっちょっと待って。ミミちゃんの話は十分聞かせてもらったから、今度は私の話!」
立ち上がったミミの手を取り再び座らせると、少女は握っていた牛乳パックをついっとミミの前へ突き出した。
「ミミちゃんの話から、その女優さんに憧れを持ったわけなんですよね」
口調はすっかり芸能リポーターで、牛乳パックはマイクのつもりだろうか。
ミミは少女の行動に、気分はすっかり大女優であるかのように、少し視線を上げて人差し指を顎にさし、そうですねぇ〜、と語尾を濁らせる。
「そんな貴女に朗報!実はそのドラマで、その女優と共演する女の子をオーディションで探してるらしいのよ!」
自分はミミに座らせておいて、今度は少女が立ち上がり、片足を座っていた椅子に乗せ、マイクもとい牛乳パックをぐしゃりと握りつぶした拳を高く持ち上げた。
所謂ガッツポーズである。
「はぁ?」
少女の熱いリアクションに対してミミは至って冷ややかなものだった。
「オーディションって、そのドラマってとっくに放送してるじゃないの」
ミミの言い分も確かで、今更オーディションと言っても説得力が無い。
「だぁかぁらぁ」
ちっちっち、と人差し指を唇の前で左右に振り、これだから素人は、という表情で座ったままのミミを見下ろす。
「オフレコだって言ったじゃない。何かもともと共演してた女の子が何らかの事情で降板しなきゃならなくなって、オーディションを開くらしいのよ」
改めて座りなおすと、少女はミミの手を握って、ねっと笑って小首を傾げる。
ね、と言われてもさっぱり状況のつかめないミミは、少女とは全く異なる意味で首を傾げた。
「だから何なの?」
ちっともつかめないミミは、怪訝そうな瞳で少女を窺う。
「ミミちゃん、そのオーディション受けてみれば?」
少女がさも当たり前の様に言うものだから、ミミはすっかり体中の力が抜けてしまった。
「だってミミちゃん、その女優さんがカッコいいと思ったんでしょ?それにミミちゃん可愛いしぃ…」
少女は語尾を濁して、ミミに微笑むと、業界の情報回してくれそうだし、とそう言って握った手により一層の力を篭めた。
少女から漸く開放されたミミは、必要書類一式は彼女の方で揃えるから、と満面の笑みで手をヒラヒラと振ってミミを見送る少女を残して教室を出た。
そのまま何処となく歩いて、無意識の内に歩きなれた道を辿っていたのか、いつの間にか昼休みに必ず訪れるいつもの教室の前まできていた。
少し躊躇ってからドアを横に引くと、すぅっとそこだけ温度が下がった。
窺うようにして隙間から体をねじ込ませると、キィという、一般教室では決して聞かれない椅子の回転する音が聞こえた。
その音に呼応するかのようにドアを閉め、音のした方に向き直る。
「今日は遅かったですね」
少しの間相手を確認するかのように視線をこちらに向けていたが、またキィという音と共に視線を元に戻してしまった声の主は、カタカタと何か別の音を生み出した。
「…そうね」
ミミは声のする方へ進んでいき、声の主の隣の椅子へ腰掛けた。
「ねぇ、光子郎君」
訪ねるような声音で、ミミは声の主、光子郎に問い掛けた。
なんですか、と言う曖昧な返事の後は、カタカタという光子郎がキーボードを叩く音と、グゥーンと低く唸るクーラーの音しかしない。
光子郎はミミを見ず画面に視線を向けたまま。
ミミも、ディスプレイの前のちょっとした机の空間に顎を突っ伏した状態だ。
暫くその状態が続いた後、思い出したかのようにミミが口を開いた。
「私がアイドルになっちゃっても、いい?」
唐突に、何の脈絡もないようなミミの言葉に、光子郎は絶句するしかなく、辺りにはクーラーの唸る音しか聞こえなくなった。