それは、母さんが死んでまもなくの事だった。
リビングのソファーに横たわりながら本を読んでいたオレは、そのままアルがリビングに入ってくるものだと思っていた。
しかし、アルは自室へ入ってしまったきり、リビングに出てくる気配がなかった。
今までアルは何も言わず自室に戻った事なんてない。
不思議に思って、アルの部屋まで行ってみたが、物音ひとつしない。
ノックをすれど、応答があるのかないのか。
入るぞ、とだけ言ってそっと扉を開けると、明かりも点けずにベッドの脇に蹲っているアルの姿が、廊下から漏れる明かりでぼんやりと浮かび上がっていた。
アルの表情は窺えなかったが、何かを庇っている仕草に、すぐに何かあったのだと問い質した。
明かりを点けて再びアルを見ると、頬や腕に擦り傷を沢山作っていた。
少しきつい口調だったにも拘らず、アルはヘラヘラと笑いながら、なんでもない、と言い張る。
その表情が何とも痛々しい。
「嘘を吐け!何でもなけりゃこんな傷、どうしてつくんだよ!」
オレはアルの胸倉を掴んで、ぐらぐらとアルの体を揺らす。
アルは全く抵抗を見せるどころか、されるがままになっている。
「なんだよ、たった一人の兄貴にも言えないって言うのかよ」
胸倉を掴んだまま、伏目がちに言うと、アルも何かを感じたのか、へらへら笑うことを止めた。
しかし、一向に何かを語ろうとはしない。
そのまま二人して動かずにいたが、玄関の戸を叩く音がした。
オレはそんなの無視しようとしたが、アルが、お客さんだよ、と言って気に掛けていた。
アルを睨むと、
「ほら、こんなナリじゃ出られないだろ、兄さん出てきてよ」
といってまた痛ましい顔で笑う。
だからどうしてそうなったんだよ、と問い質したかったが、お構い無しに戸は叩かれる。
それに呼応してか、アルがオレを急かす。
仕方ないとばかりに、アルのシャツから手を離すと、アルに背を向けた。
戸を閉める時、アルはまた膝を抱え蹲っていた。
そのまま、また部屋の中へ戻ろうともしたが、それを阻むかのように、玄関からけたたましい音が響く。
そっとアルを労わるように扉を閉めて、廊下を歩き出す。
と零しながら玄関の扉を開くと、情けない表情のウィンリィが立っていて、ドアを叩こうと振り上げられた拳が、今にもオレを殴る勢いで降ってきた。
寸でのところでそれを交わし、何するんだ、と怒鳴る。
しかしウィンリィはそんなことはお構い無しに、今度はオレが胸倉を掴まれてぐらぐら揺すられる。
ウィンリィは何かを言いたそうだったが、感情が高ぶっているのか、言葉にならず、えぐえぐと嗚咽を漏らすばかりだ。
「ったぁ、なぁにすぅるんだぁよぉぉぉ」
一向に状況の掴めないオレは、されるがままに脳味噌がこのままぐちゃぐちゃに混ざってしまうのではないかと言う間抜けな事を考えていた。
「あるぅが、あるが・・・」
それだけ言ってまたがくがくオレの体を揺する。
その言葉に、流石のオレもされるがままだった体勢を戻し、ウィンリィの手首を掴んで俺にかかる負荷を押し止めた。
「アルがどうしたって!」
さっきの今で、それはオレにとって思いもかけない言葉だった。
殆ど言葉にならず、単語を繋ぎ合わせ、一々それを確認していかなければならなかった。
しかし、アルから聞き出すよりはずっと、明瞭な答えが返ってきたのは確かだ。
オレの事と言うのは、母親を失ったばかりのオレたちにとって、お互いが拠りどころであり、いつの間にかオレが過保護になってしまっていた事が発端らしい。
いつもは二人一緒に行動しているものの、今日に限って一人だったところを、村でも悪ガキと呼ばれる子どもにからかわれたらしい。
過保護な兄貴
しかし、母親を亡くした寂しさから、アルを紛らわせる為には致し方のない行為だったと思う。
それでなくてもアルはまだ小さいのだから。
覗き込まなくても分かる。
オレの大好物のシチューだ。
「お帰り兄さん」
にっこりと満面の笑みを浮かべて、オレを出迎えてくれる。
さっきまでの痛ましい表情がまるで嘘のようだ。
「もうすぐできるから少し待っててね」
そう言って更にいい匂いを部屋中に充満させる。
「おう」
と言って、オレは読みかけの本を手にソファーに寝転がった。
内容は、全く頭に入っては来なかったけど。
多分、全部分かっているから…だと思う。
母さんが亡くなった悲しみは、アルを護る事で、救われていたのかもしれない。