まるで最後の声を聞いて欲しいのだろうかと思わせる程誰彼構わず響かせている蝉の声は、ねっとりとまとわりつくような茹る暑さと手伝って余計にこの熱を強調しているようだ。
「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉通り、まだお盆真っ只中の今日のような昼下がりはじっとしているだけでも汗が噴き出し、思考力すらいとも簡単に奪い去っていく。
さっきまで並べていた棋譜を投げ出しフローリングの床の冷気を求めて右へ左へ転がり果ては匍匐前進しているところに思わぬ客が尋ねてきた。
「何ていう格好してるのよ…」
語尾を濁しながら、呆れた様に見下ろす幼馴染。
「だってアチィんだもん」
俯せの状態から顔だけをあげていかにも正論ですというな表情を見せて答える。
「ヒカルを見てるこっちの方が熱くなりそうだわ…」
おれの言葉を聞いてるんだか聞いてないんだか曖昧な返答を寄越しながら雑誌やらで占領されている床の隙間を見つけて座り込む。
「クーラーくらい点ければいいじゃない」
何だかんだ暑さに文句を言って何も言わず黙って息を殺しているクーラーを見上げる。
「点けられるもんならとっくに点けてるよ。」
そう言って、手を伸ばせば届く範囲まで匍匐前進し、所在なさ気に転がっていたリモコンを掴むとあかりへ投げる。
あかりは、ちょっとっ、文句を言いながらも寸でのところで受け取り電源を入れた。
クーラーは、それでも尚口を開こうとせず黙秘を決め込んでいた。
「な、壊れてんだよ」
うんざりするように突っ伏すと、あかりも諦めたのかリモコンを置いた。
その音が蝉の大合唱の中に不釣り合いな程静かに響いた。
「じゃあさ…」
真っ赤に燃え盛る窓外の見慣れた景色に暫く視線を彷徨わせていたあかりは、さっき迄とは打って変わって呟くような声で話し始めた。
「盆踊りに行かない?ほら、納涼とか言うくらいだし意外と涼めるかもしれないよ?」
躊躇いがちだったさっきの言葉とは打って変わって、あかりはちょっと詰まりながらも早口で一息に言うと、じっと伺うように身を屈めておれを覗き込んだ。
「納涼ねぇ…」
正直、納涼の意味が分からなかった。
勿論言葉の表す意味を知らないのではなく、納涼と言いながら実際は人混みで蒸し暑いに決まってるのに、納涼と言うのは何故か、と言う意味だ。
「そもそも盆踊りって何だよ、脈絡ない」
あかり自身も突拍子も無い事だと承知の上だったようで少し項垂れていた。
少し言い過ぎたかなと思いどうにか取り繕うとした時、ある疑問が脳裏を過った。
「そもそも盆踊りって何の目的でやるんだ?」
返答として全く予想してなかったのか、あかりはきょとんとして見上げた。
「何って、死んだ人が帰ってくるから…えぇっと、その人達を迎え入れる為のお祭り?」
聴いているのはおれの方なのに、小首を傾げて逆に尋ねてくる。
「なんだよ、知らねぇのかよ」
ちょっと小馬鹿にしたように肩を大袈裟に竦めると、あかりの頬がみるみる膨れる。
「何よ、ヒカルだって知らないくせに!!でも死んだ人を迎えるのがお盆なのは本当だもん!!」
「死んだ人って、おばけ?」
真面目に尋ねるおれの顔を見て、あかりは顔をしかめている。
「何言ってるのよ。ヒカルだってお盆にお墓参りに行くでしょ?それと同じよ」
「同じって先祖だけ?他にはっ?」
おれの必死な形相に気圧されたあかりは、後退りながらも
「もう行きたくないならはっきり言えばいいじゃない!!」
と捨て台詞を残して慌ただしく部屋を出ると、まるでおれの代わりかのように玄関を思い切り叩き閉めて帰った。
普段ならもう少しあかりを気遣えただろう、あんなことは言わなかったと思う。
でもこの時のおれはある考えに囚われていたのだった。
その晩は、日中のあのギラギラと肌を焼き刺し焦がすような太陽の光線が嘘のように、どこからともなく囃子の音色が涼しい風と共に流れてきて、おれの頬をなぜていった。
おれは窓際に腰掛け、何処とは定まらぬ視線を彷徨わせ、夜空の煌めきに目を細めていた。
死んだ人間は星になり、そこから親しかった人々を見守っていると、あかりが目を輝かせながら語っていたのはいつの事だったか…
でも、もしそれが本当ならと、あの頃は本気でそう思っていた。
我ながらメルヘンだな。あの頃も今も大差ない。あかりの何気ない一言でこんなにも動揺を隠せずにいる。
もしかしたらおれに逢いにくるかもしれない―――――佐為が。
淡い期待だと分かってる。
成仏したのだろう、きっとあの世で秀作とよろしくやっているのかもしれない。
それはそれで癪だが、佐為が幸せならそれでいいのかもしれない。
だからと言って短かったけれどもとても大きなものを与えてくれた時間は、他と比較しようもない。
期待というよりは確信めいた考えが、おれの思考を支配していた。
姿は見えなくてもきっと近くまで来てそっと優しい微笑みを向けてくれるかもしれない。
星空だけが見下ろす窓辺に腰掛けていると、ふと何かの気配を感じた。
ふと視線を下げると、門の辺りでうろうろしている人影が見えた。
おれの前に姿を現そうと思いつつも、何と言って誤魔化せばいいか考えあぐねているという意思は伝わってくるものの、 あまりにも情けないその様子は見ていて微笑ましくもあり、懐かしさも感じられる。
二人で肩を並べて走り回った季節を思い出すと、 まるで寒い日のココアのカップの様なほんのり暖かい気持ちに包まれる。
今は夏真っ盛りだというのに。
おれはどこかでこの来訪者を期待していたのかもしれない。
すぐには声を掛けず、その様子を見ている時間も愛しく感じられた。
「あかり」
おれは門扉を開いて顔だけを覗かせて、先程からうろついている人影に声を掛けた。
逆光で表情が見えなかったのは幾分おれに味方した。
出なきゃ開口一番文句が飛んできても可笑しくない表情をしていたと思う。
あかりは先刻までの不安そうな表情とは打って変わり、まるで花壇に咲き乱れた花の様に、顔を綻ばせた。
「ほらいくぞ」
門から出ておれが促すと、
「えっ」
という声を上げて、あかりは立ち止まってしまった。
おれは頭を掻くと、あかりに背を向け
「盆踊り」
と吐き捨てて先を歩き出した。
きっと、佐為はこんなおれを微笑ってみているんだろうな。
―――ヒカルは変わらない、って、さ。