新月は雲を伴ってより一層見る者の視界を遮る。
風が何かを巻き上げるように吹き流れ、それに耐えようと踏み止まった影が、
流された雲間から照らされた月光でうっすらその表情を窺わせる。
少年が誰も居ない空間に一人ごちながら、歩みを進めている。
ひっそりと、動きを忘れたかのような住宅街。
昼間でも喧騒から隔絶された閑静な住宅街だが、この時間ともなれば
“まるで何かが出そうな程”静まり返り、その闇を際立たせている。
「なぁ、ホントに行くんかぁ」
少年は引き攣った顔を見せ、背後から付いてくる―と言うよりは追い立てている、
影を振り返って訊ねた。
「当たり前でしょ」
訊ねられた少女は、かくも当然の如く、脅える少年とは対照的に、
背筋をしゃんと伸ばし、進める歩を止めずに、吐き棄てるように言った。
「でも…」
「五月蝿い。黙って、ちゃっちゃと歩く」
これ以上の抵抗は赦さない、と言外に含んだ声は、それだけでこの暗がり以上の恐怖を与えたのか、
少年は仕方なく更に重くなった足を前へ前へと、意思の抵抗を感じつつもそれに抗いながら進めていく。
少年が少女に言われ、毎日の日課となっていた夕餉の買出しから帰って来た時、言った少女の一言が事の発端だった。
「葉、いつになったら私を楽にしてくれるの?」
これは幼い時の約束―と言うより脅迫に近い契りだったが、
こう毎日扱き使われては、こっちが楽にしてもらいたいものだ、
と、葉と呼ばれた少年は、口が裂けてもいえなかった代わりに、どうしたん、と誤魔化すような微笑とともに言を返した。
「葉がもたもたしてるから、私が仕方ないから丁度いいのを見つけてきてあげたの
今夜早速行ってらっしゃい」
少女はそれだけ言うと、再び読み続きの雑誌に視線を転じてしまった。 「ナンナぁ」
縋る様な声を挙げた葉にお構い無しく、アンナと呼ばれた少女は、聞く耳を持とうとしなかった。
「そもそもなんで私まで付いていかなくちゃならないの」
見下すような姿勢でアンナは、周囲の静まり返った空気にお構いなく吐き棄てる。
「そんな、アンナ〜だっておいら場所分からんし」
何処までも下手なのか、葉は恐怖に近い笑みを堪えずにはいられなかった。
ふん、と鼻を鳴らし、アンナは顎で葉に進むように促す。
暫く行った所で、アンナは、ここね、と言って葉を呼んだ。
そこは大きな倉を持つが屋敷と呼ぶにはこじんまりとした家だった。
ここに居るのか、と葉が囁くような声でアンナに問うたが、
アンナはそれを無視して、誰に断る訳でもなく、かくも当然の如く敷地内に侵入する。
その様子を見た葉は、見えない主人に内心で詫びを入れ、後ろめたい気持を抑えてアンナの後を追った。
アンナは、勝手知ったる我が家の様に、迷う事無く倉へと入っていった。
まるで何か見えない大きな力に引き寄せられるように、葉もそれに従う。
倉は、倉の中はしんと静まり、その時代を帯びた空気は、黴臭さや埃を風が微かに運んできたが、淀んだ空気、と言うよりは、澄んだ空気をしていた。
歩く度に、ぎし、と床が鳴き、まるで来る者を拒んでいる様な雰囲気が漂っていたが、
アンナは、梯子を上り二階へと上っていくように葉を促した。
言われるままに梯子を上りきると、天窓からの微かな月光を浴びて照らされる何かが見えた。
その存在の異様さに、また雲が風に流され、一瞬の内に辺りを再び暗闇が包んだ。
惹きつけられる様にそれに近づいた葉は、そっとそれに触れて目を閉じる。
するとどこからともなく風が舞い上がり、それを囲むかのように吹き上がる。
葉が再び目を開けたとき、そこには一人の影が佇んでいた。
葉が何か言おうとし、またその人影か口を開きかけたその時、
梯子を上ってきたアンナが、最初に声を出した。
「貴方が藤原佐為ね」
え、という疑問と、全ての手順をすっ飛ばされた驚きと、様々な感情が交錯する中、
葉と、佐為と呼ばれた、烏帽子を被り体が半透明な青年―葉が未だに触れていた碁盤に取り憑いていた幽霊は、
アンナに視線を集中させた。
「アンタ、まだ未練があるんでしょ、だからウチの葉を使って好きなだけ打ちなさい」
その言葉に、佐為は、佐為の周りの空気は一瞬の内に光を帯びた。
「その代わり、私を楽にしなさい。
あんたの腕があれば一攫千金も夢じゃないんでしょ。
あと、文句は一切聞かないから」
その眼光鋭い眼に睨まれ、佐為の空気は一瞬の内に萎えた。
「分かったわね、葉」
一転して視線を葉に移し、吐き棄てたアンナは、彼女の中で全てが解決したのか、
さっさと元来た梯子へ戻り、下階へ降りていく。
残された葉と佐為は呆然とし、アンナに視線を奪われたまま、動く事すら出来なかった。